2006年11月13日
Versus 武藤敬司×TAJIRIch301「サムライTV」の夢の対談番組「Versus」見ました。「#4」では共に海外で活躍した経験を持つ「武藤敬司×TAJIARI」の対談が実現!今回は特に興味深かったTAJIRIのレスラー人生に注目してみました。とにかく「メキシコのプロレスがやりたかった」というTAJIRIの行動力には、ただただ脱帽です。やはりここまで信念を貫ける人でなければ、成功は難しいんですね。

TAJIRI
tajiri「武藤さんはこの前後楽園のリングで花束渡して。あの時以来一度も会ってないし、あの時も無言のコメントだったから、話した事1度もないんです。これから初めてお話させていただくんですけども…。」


武藤敬司
muto「以前ね、週刊誌かな?雑誌で対談した事あるんですわ。その時の第一印象、何かちょっと変わってるやつだなと。ただあれから何回か接して、やっぱり変わってるやつだなと(笑)。まあその辺が楽しいところじゃなかな。」


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TAJIRIがプロレスラーを目指したきっかけ

素顔のマスクマンTAJIRIがプロレスラーを目指したきっかけは、浅井嘉浩(ウルティモ・ドラゴン)の試合を見た事。浅井の試合を見て「プロレスラーになりたい!」と思った学生時代のTAJIRIは、早速翌日からジム通い。とにかくメキシコ流の試合がやりたかったので、メキシコでプロレスを見る為の資金稼ぎにアルバイトも。メキシコで本場のルチャ・リブレを見てさらにプロレスの魅力に惹かれていったTAJIRIは、FMWやみちのくに履歴書を送るも書類審査で不採用(その時、浅井のユニバーサルはみちのくプロレスに)。「メキシコに行くしかない」と考えたTAJIRIは、資金を稼ぐ為に就職。浜口ジムで鍛えて体を作った後、IWA JAPANに履歴書を送ると合格。1994年プロレスデビューとなりました。
武藤敬司
「そこテストとかもあんの?」
TAJIRI
「一応やりました。荒谷さんが試験官やってくれたんですよ。その頃、荒谷さんがエースだったんですよ、IWA JAPANの。」
武藤敬司
「あ、そう?!ダメだ俺、歴史がわからねえや、プロレスの(笑)。」
TAJIRI
「でも、そこが武藤さんらしくて(笑)。」
武藤敬司
「で、そこに何年位いたんですか?」
TAJIRI
「2年いなかったですね。」
武藤敬司
「すぐデビューしたの?」
TAJIRI
「2ヶ月後にデビューしました。リングに触ったの8回位で、それでデビューしました(笑)。」
武藤敬司
「やっぱその2ヶ月って過酷だったですか?」
TAJIRI
「過酷でも何でもなかったです。客観的に見たら、まるで虫けらのように使われて…。でも、楽しくてしょうがないですから、全然過酷じゃないです。」
武藤敬司
「初めだから、全てが吸収だもんな。で、見切りをつけて。」
TAJIRI
「道場がなかったんですよ。とにかくそれじゃ上手くならないなと。あとメキシカンがいっぱい来るのが魅力だったんですけど、ビクター(キニョネス)と浅野さんがだんだん仲悪くなってきちゃって。浅野さんが「もう外人は呼ばない。日本人を増やしていって自分の団体の勢力を拡大しよう」って。それで外人が来なくなっちゃった、これじゃもう勉強にならないなって。それでビクターに相談したら「じゃあアレナメヒコにブッキングしてやる」と。」
武藤敬司
「その時から外人とそういう…。」
TAJIRI
「もう最初からですね。浅井さんに憧れた瞬間から、もうメキシコでやりたいって決めてたんですよ。だからIWAに入れば、一番メキシコに行きやすいだろうなと思って選んだんです。」


当時は「アメリカ」は全く考えてなかったというTAJIRI。とにかくルチャリブレが好きだったので、「世界のプロレス」なんかを見ても全くアメリカンプロレスには魅力を感じなかったそうです。TAJIRIは「体が小さくても、これなら手が届く」という潜在的意識から、メキシコが好きになっていったんじゃないかと自己分析。
武藤敬司
「俺こないだメキシコ行ってね、境遇が日本と似てるなっていうか…。やっぱりスペインから侵略されて…。やっぱりメキシコには“柔よく剛を制す”の精神みたいなのが宿ってて。日本もそうじゃないですか。アメリカに戦争で負けて“柔よく剛”の精神…アメリカって“柔よく剛を制す”絶対にないからね。もう強いものは強い、デカイものはデカイ、っていうそういう意識しかないからな。その辺、メキシコの方が日本人に近いというか。っていうのを凄い感じたんだよね。」


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憧れの地・メキシコへ

ついに憧れの地・メキシコへ渡ったTAJIRI。当時のメキシコは景気が良かった上、ビクターがそこそこ上の方でブッキングしてくれたので、メキシコでの生活も全く辛くは感じなかったとか。ちなみにその頃、浅井はAAAに移籍していたので、TAJIRIとの接点がなかったそうです。
TAJIRI
「浅井さんがまだ学校作る前だったから、自分でルチャを学びに来てるっていう人はチラホラいたんですよ。けど、ほとんど接触はなかったですね。」
武藤敬司
「一人で生活してたの?」
TAJIRI
「はい。あと日本人が住む宿があるんですよ。そこに住んでて。だから日本人はいっぱいいるんです、まわりに。」
武藤敬司
「食生活は?」
TAJIRI
「そこでですね、みんなでお金を出し合って、日本食を作ってたんですよ。」
武藤敬司
「それはプロレスラーじゃなく、色んな人がまざって?へぇ〜面白いね。」
TAJIRI
「その時期は凄く面白かったですよ。」


半年ほどそんな生活を続けていたそうですが、やはり疲労がたまってきたそうで、体重も60キロ台に…。体を作り直してまたメキシコへ来ようとビクターに相談したところ、サクラダ(ケンドー・ナガサキ)と仲が良かったので、そのルートで大日本プロレスを紹介してもらったそうです。
TAJIRI
「2シリーズ位のアルバイトのつもりだったんですけど、小鹿さんが気に入ってくれちゃって「お前、協力してやるよ」って言い出しちゃったんですよ(苦笑)。」


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1996年、大日本プロレス入団

メキシカンを毎シリーズ2人ずつ、お前の好きなやつ呼んでやる」という好条件に、「メキシコでも対戦できないようなトップどころを呼んでもらえば、こっちでも勉強になるかも」と思い、大日本プロレスへの入団を決意。その時のライバルは、新日本にも上がっていたドクトル・ワグナーJr。
TAJIRI
「ドクトル・ワグナーと毎日のようにやってましたね。」
武藤敬司
「え〜?!ドクトル・ワグナーって新日本出てたよね?」
TAJIRI
「そうです。あの後に新日本に移籍したんですよ。」
武藤敬司
「ああ本当に?じゃあすげ〜古い昔だよね?」
TAJIRI
「それは…9年位前じゃないですかね?」
武藤敬司
「スーパーJrって、どこの団体から出場した?」
TAJIRI
「大日本です。」
武藤敬司
「新日本はメジャーって言われてて、大日本はインディーって言われてる中、違い感じた?」
TAJIRI
「もう違いしか感じなかったですね(苦笑)。」
武藤敬司
「俺、いた?」
TAJIRI
「いましたよ(苦笑)。初めてお会いしたのはね、長野のどっかの体育館だったんですよ。僕はその日一人で行かされたんですよ、電車で新宿から。それで体育館で待ってるんですけど、「新日本の怖い人達が来る」っていうだけで緊張しちゃって、いてもたってもいられなくなっちゃって。「とりあえず練習してなきゃ怒られちゃうかな?」と思って、会場の片隅でスクワットやってたんですよ。そしたら日本人バスが到着して、まず武藤さんが出てきたんですよ。僕バーッと近づいてって「大日本プロレスからやって来ました田尻と申します!よろしくお願いします!」って言ったんですけど、武藤さん「おう」って言って、それだけで行っちゃって(苦笑)。」
武藤敬司
「あ、本当に?(笑) へぇ〜。大体そういうもんだよ?俺。」
TAJIRI
「いや、すごくらしくて。僕はその時思ったんですよ(笑)。」
武藤敬司
「で、その大日本も、いずれ見切りをつけるんだよね?」
TAJIRI
「2年いなかったですね。日本で4年とやってないんですよ、プロレス。」


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1999年、ECWへ

日本では稼げないというのと、年齢的にも「このままではいかん」と思ったTAJIRIは、同時期にフリーとなってメキシコへ渡ったカズ・ハヤシに刺激を受け、小鹿社長に黙ってメキシコへ。しかし、その頃のメキシコは景気が悪く、試合もなかなか組まれない為、かなり苦しい生活を強いられる事に。日本にも帰る事が出来ないでいた時、ECWのポール・ヘイマンから声がかかったそうです。
TAJIRI
Ecw「ECWがWCWに大量に選手を引き抜かれた時だったんですよ。それでポール・ヘイマンがビクター・キニョネスに「誰かいい選手いないか?」っていう事で。」
武藤敬司
「どうですか?初のアメリカは。」
TAJIRI
「最初は…やっぱりそんなに魅力を感じなかったんですよ。そしてECWに行っても「メキシコでライバルだったやつを2〜3人連れてきてもいいよ」って言うんで、それでそいつらを呼んでもらって。同じ試合をずっとやってたんですよ。だから、アメプロには半年位接触なかったんですよね。」
武藤敬司
「ベビーフェイス?ヒール?」
TAJIRI
「ベビーでした。」
武藤敬司
「ベビーだったの。本当に?」
TAJIRI
「それまで僕、ヒールって一回もやった事なかったんですよ。」
武藤敬司
「ヒールっぽいけどね。いつ位からECWが好きになった…というか順応してきたっていうか。」
TAJIRI
「ポール・ヘイマンがそろそろアメリカ人と交じって、普通通りにやってくれって言い出してからですね。だんだん「これは面白いな」と。」


ECWは、アメプロ独特の“あの”テンポではなく、日本のスタイルに近い選手が多かったのでやり易かったとか。
TAJIRI
「ちょうどその頃、ポール・ヘイマンが「悪者をやりなさい」と。それで今のスタイルになったんですけど。」
武藤敬司
「それまでと違うんだ?じゃあ。」
TAJIRI
「全然違います。その頃は本当に短い普通のパンツはいてやってたんですけど、急に長いパンタロン作って。」
武藤敬司
「ECWでそれやってきて、次は何?ニューヨークだ。WWE。それはスカウト?」
TAJIRI
「スカウトですね。ECWは2年いたんですよ。1年目でECWのTV選手権を取って、その時に1回声がかかったんですよ。その時は断ったんです。まだECWの方が楽しかったんで行きたくなかったんです。テレビでWWE見ても全然面白いと思わなかったんですよ。」
武藤敬司
「凄い…金に対する執着とか全然ないんだね。」
TAJIRI
「で、その頃ですね、大日本とか貧乏なところでずっとやってたんで、ECWのギャラってのは、僕には結構大金で結構満足してたんですよ。初めてプロレスで食えるようになったんで。」


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2001年、WWEへ

その後、ECW崩壊によりWWF(当時)へ移籍。しかし、最初の2ヶ月間は自宅待機。給料だけ出ている状態だったので、かなり不安だったそうです。
TAJIRI
TAJIRI ザ ジャパニーズバズソー「辞めて日本帰っちゃおうかと思いましたもん、そん時は。」
武藤敬司
「で、いつか呼ばれたんだ。」
TAJIRI
「はい。」
武藤敬司
「そっからアングル入ってんの?」
TAJIRI
「はい、入ってました。」
武藤敬司
「もういい扱いだった?」
TAJIRI
「いい扱いでした。毎週テレビで必ず…。」
武藤敬司
「誰と?アングル。」
TAJIRI
「ウィリアム・リーガルのお茶汲みをやったんです。」
武藤敬司
「ああ〜はいはい。」
TAJIRI
「リーガルが悪役コミッショナーって役で、僕がそれのゴマスリ日本人という役だったですね。」
武藤敬司
「その“ゴマスリ”っていう部分は向こうから提供されちゃうの?」
TAJIRI
「そうです。全てそうです。自分の意見なんか…一切ないですよ(苦笑)。例えば、その演技の中で「こういう事やりたい」っていうのはOKなんですけど。大抵その人の個性に合ったものを提供してくれる時代だったんですよ。まだ選手もそんなに多くはなかったから。これがWCWが崩壊してバッと一気に増えたら、手が回らなくなってきちゃったんですよね。その頃はね、まだよく吟味してやってましたよ、会社もストーリーは。」
武藤敬司
「だって、どう見ても地でいけるキャラの方が強いですもんね。」
TAJIRI
「そうですね。逆に地の中にないものって上手く出来ないですね、人間。」


TAJIRIとリーガルのやり取りは最高でした。TAJIRIは思いっきり日本語、リーガルは英語で話しているのに、なぜか会話は成立してるんですよね(笑)。

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WWEを振り返ると

今、WWEを振り返ると5年間のうち4年間は楽しかったけど、最後の1年はもう楽しくなかったというTAJIRI。前回の対談を忘れていたTAJIRIに、武藤はいじわるな質問を…(笑)。
武藤敬司
「実はね、一回対談した事あるじゃん?雑誌でね。」
TAJIRI
「…ああ!そうでしたね!」
武藤敬司
「ニューヨークが日本に来た時に俺と対談して。その時は何かもう「日本なんて絶対帰らねえ」なんて…。」
TAJIRI
「言ってましたよね(苦笑)。」
武藤敬司
「日本よりアメリカに定住するっていう。「ああ、凄いな〜」と思って。」
TAJIRI
「その頃はまだ楽しかったんですね…(苦笑)。」
武藤敬司
「何でコロッと変わっちゃったの?(笑)」
TAJIRI
「だんだん変わってっちゃったんですよ(苦笑)。」
武藤敬司
「そのきっかけは?」
TAJIRI
「やっぱり…疲れましたね。移動移動移動…。移動のペースが年を追うごとにだんだんだんだん早くなってったんですよ。もう国内だけじゃなくて外国…アジアだ、ヨーロッパだ、オーストラリアだ、インドだ、って。」
武藤敬司
「年間何試合ぐらいしてたの?」
TAJIRI
「たぶん一番多い年は…220試合ぐらいしたかもしれないですね。それでもこないだサクラダさんに会って言ったら「バカ、俺なんか400試合位してたよ」って…。」
武藤敬司
「俺、300試合位してたよ。」
TAJIRI
「移動距離が違うんで…(苦笑)。」
武藤敬司
「そうそうそうそう。」


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WWE離脱、日本へ

武藤敬司
「WWEもいずれ見切りをつけて。これは悩んだでしょ?やっぱり生活の事とか全てをひっくるめて。」
TAJIRI
「プロレスの試合だけを一生やり続けるわけにはいかないんで…。何か違う道も模索するには、やっぱり日本で色んな人に会ったり色んなつながりを作っていかなきゃいけないな〜っていう。そういう考えもあって、日本に戻って来たんですよ。」
武藤敬司
「アメリカじゃ出来ない?」
TAJIRI
「できないですね。言葉が…。」
武藤敬司
「俺が帰った理由ね、こんなこと言っていいのか分かんないけど、やっぱり人種差別の国だっていうかさ。一番最後にアメリカ行った時は、ビンス・ルッソーっていう、まさしく…そういうやつらじゃん?」
TAJIRI
「WCWの末期の頃ですか?」
武藤敬司
「うんうん。絶対言葉の壁もあるし、やっぱりアメリカンドリーム…ヒールだったらいいや。敵対としての。ただ本当の上っていうのは絶対になれないね。それがね、空しくって。っていう部分もあったよ、俺。最終的に。」


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ハッスルを選んだ理由

WWEから日本へ帰ってきた時のTAJIRIは、まさに浦島太郎状態。どんどん衰退していく日本プロレス界の今の状況は逆にチャンスだと思えたそうです。
武藤敬司
ハッスルマニア2005「何でハッスル選んだの?」
TAJIRI
「生で年末見て、もう凄くフィットしたんですよ。もうこれ以外ないなって。」
武藤敬司
「それはニューヨーク…WWEに近かったって事?」
TAJIRI
「それもありますし…あとやっぱそういう風にも決まってたんでしょうね、運命のレールの中で。最後、僕いつもこういう風にしか思わない事にしてるんですけど。」
武藤敬司
「だけどたぶん…わかんないけど、たぶんWWEと違うでしょ?」
TAJIRI
「……(苦笑)。」
武藤敬司
「恐らく。」
TAJIRI
「…そうですよね。色んな違うものもありますよね。けど、似てるものもあるんですけど。日本の中で一番近いものがあると言ったら、やっぱハッスルですよね。」
武藤敬司
「あ、そう。今、WWEみたいなプロレスいっぱいあるじゃん?」
TAJIRI
「そうですね…やっぱりハッスルはですね、入ってみてさらに分かったんですけど、作り手たちの熱意が凄いわけですよ。もう遊びでやってないんですよね、みんな。そういうスタッフの熱意みたいなのはWWEに凄く似てるんですよね。」
武藤敬司
「じゃあ、やる方法論は違うの?」
TAJIRI
「結局、見に来た人に面白いものを…。色んなプロレスの試合以外の方法も使って提供するって意味では同じだと、僕は思うんですよね。」


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TAJIRIが見たビンス・マクマホン

武藤敬司
WWE マクマホン「プロレス好きなの?ビンスは。」
TAJIRI
「好きですね。会場のビンスの部屋へ行くと、プロテインとかバーベルの器具とかが…(笑)。」
武藤敬司
「すげ〜体してるもんね。」
TAJIRI
「本当に好きみたいですよ。シェインはもっと好きですよ。」
武藤敬司
「ああ本当に?娘は?」
TAJIRI
「娘も好きです。実際みんなやりますもんね。一回MSGでハウスショーがあった時に、入場口のところカーテンになってるじゃないですか。そこでシェインとビンスとステフが3人でカーテンの間から見てたんですよ。それを横から見てたら、3人で実況ゴッコして笑ってるんですよ。本当に好きみたいですよ、プロレス。幹部に見せてる顔とは違って、普段の普通のファミリーに戻っちゃってて、3人で冗談言いながら実況して色んなこと言ってるんですよ。その選手見ながら。」
武藤敬司
「へぇ〜。ビンスは日本のプロレスって、どう思ってんの?眼中に全然ないの?」
TAJIRI
「…かもしれないですね。」
武藤敬司
「あ、そう。昔は違ったよね?きっと。たまにアングルなんかで、日本のアングルがアメリカに行ってるっていうのもあったりしたもんね。」
TAJIRI
「ありましたね。」
武藤敬司
「という事は、見てる事は…いや、ビンスが直接じゃないかもしれないな。」
TAJIRI
「まわりを固めてる人たちが…。」
武藤敬司
「見てるんだよな、きっとな。眼中にないのか…。」


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WWEの厳しさ

武藤敬司
「WWEって、中で競争って激しい?」
TAJIRI
「凄いですよ。」
武藤敬司
「要は受身の練習したり、技の練習もしたりしてるんですか?」
TAJIRI
「突然そういう事をさせるんですよ、会社が。紙が配られてくるんですね。“来週のハウスショー、始まるのは7時だが、4時に以下の者は来て指導を受ける事。○○○○、○○○○”って、突然来るんですよ。」
武藤敬司
「マジで??」
TAJIRI
「それで行って、受身から全部…やらされる時があるんですよね。」
武藤敬司
「それは何のため?」
TAJIRI
「スキルアップだそうです。試合の中でエージェントが「あの選手はロープへの走り方が遅い」だとか、そういうの全部チェックしてるんですよね。それを全部補強するために、フィンレイとかマイケル・ヘイズとか巧い人が教えるんですよ。だから、ジョン・シナがチャンピオンで人気あるけどヘタクソだから、よくやらされてましたよ、それ(笑)。」
武藤敬司
「上で扱ってても?」
TAJIRI
「HHHとかそういうのは完璧なレスラーだからそういう事はないんですけど、やっぱシナはまだ発展途上だから…。ランディ・オートンとか。」
武藤敬司
「シビアだねえ。」
TAJIRI
「あと、今は罰則も凄いんですよ。会場に1時まで必ず入らなきゃいけない。で、門の所でエージェントが待ってるんですよ。「誰々、何分通過」って。1分でも遅れたら、罰金で500ドル払わなきゃいけない。」
武藤敬司
「昔の日本の軍隊みたいだな…。」
TAJIRI
「あと会場の中でゲームやっちゃいけないという決まりもできて。」
武藤敬司
「え?何でゲームやったらダメなの?」
TAJIRI
「紳士らしく。WWEスーパースターたる者、そんな事じゃいけないっていう…。あとGパン穿いちゃいけないんですよ。」
武藤敬司
「え〜?!」
TAJIRI
「あと最低でもスラックスに襟付きのシャツ着て歩いてないと、罰金なんですよ。」
武藤敬司
「え〜?!」
TAJIRI
「あと私生活でも汚い言葉を吐いてはならないっていう(苦笑)。」
武藤敬司
「リングの中でも吐くじゃん?」
TAJIRI
「もうやってないです。これ(中指)もダメです。ストーンコールド以外は。」


スキルアップはともかく、ここまで雁字搦めにされたら、それは楽しくもなくなりますよね。ちょうどアティテュード路線になった頃のWWFでは、モザイクとピー音ばかりで。それが面白かったんですが…。

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毒霧

毒霧東洋人レスラーといえばやっぱり毒霧。TAJIRIの毒霧を間近で見て「綺麗な毒霧だな〜」と思ったという武藤。作り方が丁寧だそうです。悪用しないので、作り方教えて欲しいですね(笑)。
TAJIRI
「作り方?何の話ですか?(苦笑)」
武藤敬司
「物がさ(笑)。綺麗だな〜。几帳面だよな?俺なんかスゲ〜汚いからね。ただいいタイミングではけたな。」
TAJIRI
「そうですね。」


20年プロレスに携わってきて、毒霧に勝る凶器はない」という武藤。一時期は毒霧以外にも何か出せないかと徹底的に研究していたそうです。これなんかは「プロレスの砦」でよく話が出ていたので、いつ試合で出るかと楽しみにしていたんですが…。
武藤敬司
「昔、マジックの人とすげぇ研究してさ。どうしてもドラゴンボール(ファイアボール?)出したかったのね。」
TAJIRI
「(手でカメハメ波の形を作って)こうやって?」
武藤敬司
「火の玉をこうやって(手の中にためて)。マジックであるんだよ。火をボアッとだして。ドラゴンボールをブアーッとぶつける様な研究、すげぇした事あるからね。」
TAJIRI
「鳩出すっていうのも、いいかもしれないですね(笑)。」
武藤敬司
「あと口から火を吹く…火を持って吹くっていうのはあるじゃない?毒霧のように発火しないで吹かせるっていうのは一生懸命考えたんですよ。緑だったりオレンジであったりとか、可能なんですよ。薬品と薬品くっつけてね。それを体育館の隅で練習してたら消防署に怒られちゃった。」
TAJIRI
「(笑)。」
武藤敬司
「それでキャンセルした事あるよ。やんなかったの。」
TAJIRI
「怒りが頂点に達したら、頭が燃えるとか出来ないかなと思った事あるんですけど。」
武藤敬司
「絶対できるわけないよ、そんなのは(笑)。」
TAJIRI
「この前、後楽園で武藤さんに白い花に毒霧を吹いて渡した時に、白い花がだんだん緑色にじわ〜っと変わっていくの出来ないかな〜と結構真剣に考えてたんですけど。」
武藤敬司
「そんな事は、もしかしたら…マジックの人に頼めば出来るよ。だけど、それはマジックの世界。やっぱり俺らの世界で毒霧でやる事に意義が。」


火を吹くのは数年前の「プロレスの砦」で、よく「吹けるようになったけど、まだ火力が小さい」とか、試行錯誤を重ねていると話していたのを覚えてます。また、毒霧の起源は、「ゲーリー・ハートがシャワー浴びてて思いついた」という武藤説と、「それより10年位前にすでに使い手がいた」というTAJIRI説に分かれてました。

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現在の目標

TAJIRIには、人には言えないプロレス以外の目標があるそうです。人に言ってしまうと、そのエネルギーが薄れていってしまうので、自分の中に充満させておくんだとか(笑)。
TAJIRI
「そのうち何かやりますんで。」
武藤敬司
「何をやるの?ヒント教えてくんないと分かんないよ(笑)。」
TAJIRI
「あとでこっそりと…(笑)。」
武藤敬司
「もしかしたら銀行強盗だったりとか?」
TAJIRI
「それは夢なんですか?(笑)」


プロレスの夢は「三冠チャンピオンになること」。武藤社長は「そういう状況は作れるかもしれないな」と結構ノリ気でした。
武藤敬司
「いい事聞いたな。ネタとしてインプットしておこう。」


あともう一つ、スポーツ紙などでも報道されていた…。
TAJIRI
「グレート・ムタをハッスル・マニアに引っ張り出して…。」
武藤敬司
「それはいいよ(笑)。意外とグレート・ムタ、腰が重くてね。武藤敬司も重くてね。」
TAJIRI
「ファンはきっと“エスペランサーvsグレート・ムタ”を見たいと。」
武藤敬司
versus muto「いや、いいよ。しばらくヨーロッパ行ってくるよ。1日だけ。イギリス行ってきますよ。もっともっと色んなもの吸収してね。」
TAJIRI
「来て欲しいなぁ…ハッスルに。ヨーロッパ行くより、ハッスルの中を覗いたほうが、たぶん色々まだ見るものがあると僕は思うんですけどね。」
武藤敬司
「半分、バケーションも兼ねてるからさ。やっぱり文化っていうかさ。そういうものもいいじゃないですか。」
TAJIRI
「ハッスル・マニアには…出てくれないですかねえ…?グレート・ムタは。」
武藤敬司
「いいよ、だって器用にしゃべれたりできないもん。」
TAJIRI
「いや、ムタは全然しゃべらなくても。ええ。」
武藤敬司
「しゃべれなかったら、いじられちゃうじゃん(笑)。」
TAJIRI
versus tajiri「ファンはきっとモンスター軍の一員として降臨すると思ってるんでしょうけど、僕はハッスル軍が宇宙から連れてきた宇宙生物みたいな感じで、緑色の放射能を口からプーッ!って吐くのをやったら面白いんじゃないかと。」
武藤敬司
「ゴジラにすりゃいいじゃん。本物のゴジラに。」
TAJIRI
「本物なんているんですかね?(笑)」
武藤敬司
「どっか…円谷じゃねえな、どこだゴジラは?東映か?大映か?どっちだ?東映か?HGまで上げてるんだから、ゴジラだって出るよ。交渉したら。」
TAJIRI
「…やっぱりグレート・ムタじゃないですか。」
武藤敬司
「いや、尻尾付いてるゴジラだよ。」
TAJIRI
「尻尾の付いたグレート・ムタ登場っていうのも面白いじゃないですか。尻尾切られても尻尾が動くんですよ、まだ。」
武藤敬司
「尻尾いらないよ、俺は(笑)。」


武藤は“1日だけ”ヨーロッパへ行くそうで。武藤はヨーロッパ行っても、ムタは…??と思ったんですが、考えてみたら11月23日って昼に全日後楽園大会があるんですよね(川田はダブルヘッダー)。果たしてハッスル・マニアにグレート・ムタ登場なるか?!
武藤敬司
「(収録後、ハッスル・マニアについてTAJIRIに)神無月でいい?ダブルヘッダーなんてしないよ。プロレス以外の夢っていうやつを教えてくれないと、俺やだな(笑)。」


全日本プロレス
2006世界最強タッグ決定リーグ戦

武藤&川田 vs 天山&小島、ほか
11月23日(祝・木) 11:00開場 12:00試合開始
東京後楽園ホール チケット情報はこちら

ハッスル・マニア 2006
11月23日(祝・木) 17:00〜生中継
ch162「パーフェクトチョイス」 ¥2,100/番組

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今回もかなり見ごたえがありました。他にも「一般人がムタvsTAJIRIを見た時の反応」や、「武藤の海外遠征」話、先日のPRIDE.32ラスベガス大会とプロレスを比べ「なぜ日本のプロレス界は衰退したのか?」など、興味深い話の連続でした。サムライTVでは、まだまだリピートがありますので、気になる方はぜひ番組をチェックしてみて下さい。

TAJIRIのプロレス放浪記TAJIRIのプロレス放浪記
TAJIRI

「週刊プロレス」誌上にて連載された日記を単行本化。回想録や特別対談など書き下ろしも満載

FIGHTING TV サムライ
月額/¥1,890 プロレス・格闘技セットなら、4chで月額/¥2,990
全日本プロレス公式ホームページ
武藤社長日記
ハッスル オフィシャルウェブサイト
ハッスルバズソー TAJIRI


この記事へのコメント
コメ書き失礼いたします!対談内容面白く読ませて頂きました<(_ _*)>

そのTAJIRIですが、11月11日より新しく公式をスタートさせました。

宜しければお時間ある時にでもお寄り頂けると幸いです。

少し古いエントリーへの書き込み失礼いたしました!
Posted by TAJIRI WEB at 2009年11月21日 02:50
TAJIRI WEBさん、こんばんは。
公式サイト新設おめでとうございます!
早速拝見させていただきました。
TAJIRI選手の「新さすらい放浪記」韓国遠征編おもしろいですね。
韓国プロレスってあまり馴染みがなかったのでとても興味があります。続きが楽しみです。
Posted by マック at 2009年11月23日 21:14
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